【制作年/2018.3】
【発表/ゲンロン・カオス*ラウンジ新芸術校
第3期最終成果展「サードパーティ」/五反田ゲンロンカフェ】
2011年11月3日。「あの年」は子どもが生まれた年だった。
津波によって多くの命が奪われていったその瞬間にも私は、静かに眠る子どもを腹に宿していたのだった。
震災によって露見した、同じ生命をめぐる大きな断絶を忘れられない。
当時、関東に住んでいても、大きな揺れや帰宅の困難を経験したり、テレビ、ネットの情報を受けてPTSDを発症した知り合いがたくさんいた。
「被災地でないから当事者ではない」などと思うにはあまりに大きすぎる災害だった。
そうした人の中には極度に私生活の開示を気にする様子も少なからず見受けられた。
子どもの誕生、祝い事、家族旅行。
不謹慎、その言葉の奥底には、この国に住む誰もが持ち得る「サバイバーズギルト」が眠っている。
サバイバーズギルトとは、災害や事故で生き残った人間が亡くなった人に対し感じる罪の意識のことである。
私が執拗に子どもを記録し、その行為と矛盾するように子どもの情報を伏せてしまうのは、サバイバーズギルトによるものなのではないかと考えた。
一秒前の子どもにはもう会えない、一秒前の子どもにはもう二度と会えない、そう追い立てられるかのように記録そのものに固執してきた。
そしてSNSに載せる際は神経質に子供の顔を隠した。
そのような行為がそのまま、子どもを守っていけるような気がしていた。
しかし、「生き残った罪の意識」によって子どもを執拗に記録し、かつ匿名に至るまでろ過しているのだとしたら、私は、なんと不気味な母親なのだろう。
これは、「震災の年に生まれた子ども」の生を肯定するためのホームムービーの試みである。
私は、子どもの映像を、慎重に発信する。
鑑賞者は無差別に私の子どもを目にすることになる。
伏せていた子どもの顔が、名前が、他者と共有されていく。
鑑賞者と私は決して交流をしない。
他者として、ただ同じ時間を過ごしては別れる。
生きることも死ぬことも等しく、過ぎていく時間の痛みの上に存在しているのだと感じたかった。
そう願うのは、「震災の年に子どもを生んだ意味」などと考えてしまう私の、ただの驕りなのだろうか。
【作品プラン】
ダンボールハウスを模した狭い小屋。
正面モニターには少女が海辺でアヒルのパペットと遊ぶ姿が映る。少女の顔にはモザイクがかかり、音もない。
小屋へ入る、暗い。波の音。足元は砂。
奥へ進むと室内壁には震災後の津波の去った被災地、泥のついた縫いぐるみや生活用品の写真が一面に貼られ、室内も瓦礫や玩具が散乱している。
その中に作者がいる。パペットを模した黄色いアヒルの着ぐるみを纏い、うずくまり、ヘッドホンを付け、室内のモニターを見つめ、動かない。
鑑賞者はその横で同じくヘッドホンを装着し、モニターの映像を観ることができる。
室内のモニターでは小屋正面の映像がモザイクなし、音声ありで流れている。
映像の中でパペットのアヒルは何度も少女の名前を呼び、話しかける。
「ぼくとけいやくして、まほうしょうじょになってよ!」
「いやだ!」少女は笑って相手にせず、波打ち際を逃げていく。
出口から外へ出ると、鑑賞者はまた正面モニターを目にするが、鑑賞者にとってその少女は、匿名の少女ではなくなっている。
慈 Itsuki
慈(Itsuki) 貸民家プライベイト管理人
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